三つ四つのお子ちゃまが、「どっこいしょ。」って言うと、可愛いですねー。
ところが、どっこい!(笑)
青年以上が言うと、年寄りくさ~いイメージになってしまう言葉ですね。
「どっこいしょ」の語源は、主に2説あるようです。
先ず、民俗学者の柳田国男氏によると、「何処へ」が語源だということです。
この「どこへ」はもともと感動詞で、相手の発言や行動をさえぎる時に使う言葉です。
相撲で「どっこい!」とか「どすこい!」と掛け声をかけるのは、相手の動きを遮り止める時に、
「何処へ行く!」という制止の意味の、力を入れる掛け声です。
言霊による呪(しゅ)とも言えますね。
今でも、「ところがどっこい!」と言えば、相手や物事を遮る意味で使われています。
江戸時代には、歌舞伎にもよく出てきた言葉で、「なんの!」や「どうして!」などと同じように、
思わず力が入るような言葉なのですよ。
「どこへ!」が、「どっこい!」となったり、「どっこいしょ!」となったり、
言語変化したものと言われています。
この際の、「い」や「しょ」は、強調語です。
もう一つの説が、実は、仏教語なのです。
その元となった言葉というのは、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」という言葉なのです。
これは、山岳仏教の修行者たちが、修行で山を登りながら唱えた、
呪文のような言葉からきたそうです。
現代でもそうですが、修行者達がお山に登るとき、
「懺悔(さんげ)、懺悔、六根清浄!」
などと掛け声を上げて登って行きます。
その人々が疲れてくると、「六根清浄」の唱和が乱れて聞こえ、
それが周囲の人には「どっこいしょ」と聞こえたらしく、
いつの間にか、「どっこいしょ」という掛け声に変わっていったと言われています。
「六根」というのは、もちろん仏教語で、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の六つです。
これは私達の感覚器官である目、耳、鼻、舌、触覚に、心を足した六つを指します。
「般若心経」にも書かれていますね。^^
それによって感知されるのが六境で、色・声・香・味・触・法(しき・しょう・こう・み・そく・ほう)です。
この六つを清浄なものにすることで、悟りへの道が開けると考えられているのです。
感覚器官を清浄にする、というのはどういうことかといいますと、
「感じるものにとらわれるな。」ということでしょう。
美しい姿とか、心地よい音色だとか、いい匂いだとか、美味しいとか、触り心地がよいだとか、
そういうものは、すべて私達が自分の都合や、ころころと流転する心の状態によって、
自分の心が作り出す感覚です。
そういうモノに執着して、快・不快の感情に支配されたり、ふりまわされないようにしましょう、
という意味合いが「六根清浄」なのです。
自分の感覚からくる迷いを断って、サトリを目指そう!という意味ですが、悟りを得ずとも、
心身を清浄にすることによって、正しい判断や新しい発見が得やすく、
「あ。そっか!気づいた!」という覚りも得やすくなるものです。
ストレスや、日常生活の多くの不満や不快の状況に呪縛されずに、
より良く、より楽しくなるために、心新たな気づきを得たいものですね。
参考までに、神道の「六根清浄の大祓い」にも、次のような祝詞(のりと)があります。
天照皇太神(あまてらすすめおおかみ)ののたまわく、
人は即ち天下(あめがした)の神物(みたまもの)なり。
すべからく、静まることをつかさどる心は、すなわち、神と明(かみ)との本の主なり。
わが心神(たましい)をいたましむること、このゆえに、
目にもろもろの不浄を見て、心にもろもろの不浄を見ず、
耳にもろもろの不浄を聞きて、心にもろもろの不浄を聞かず、
鼻にもろもろの不浄を嗅ぎて、心にもろもろの不浄を嗅がず、
口にもろもろの不浄を言いて、心にもろもろの不浄を言わず、
身にもろもろの不浄を触れて、心にもろもろの不浄を触れず、
意(こころ)にもろもろの不浄を思いて、心にもろもろの不浄を想わず。
この時に、清く潔(いさぎよ)きことあり。
もろもろの法(のり)は、影と像(かたち)のごとし。
清く浄(きよ)ければ、仮にも穢(けが)るることなし。
説(こと)を取らば、得(う)べからず、皆、花よりぞ木(こ)の実とはなる
我が身は即ち、六根清浄なり。
六根清浄なるがゆえに、五臓の神君、安寧(あんねい)なり。
五臓の神君、安寧なるがゆえに、天地の神と同根なり。
天地の神と同根なるがゆえに、万物の霊と同体なり。
万物の霊と同体なるがゆえに、為すところの願いとして成就せずということ無し。
無上霊宝神道加持。
むむむ。明日は、ゴミ出しの日だった。。
「極めて汚きも、溜まり無ければ、穢(きたな)きとはあらじ。
内外(うちと)の玉垣、清く浄(きよ)しと申(まお)す」・・・一切成就の祓い。
お片づけしようっと・・・「どっこいしょ。」っと。
うーん。。やっぱり、年寄りくさい?