「火宅」とは、私たちが今生きている「この世」を表現する言葉です。サンスクリッ ト原語に当たってみましょう。
「火宅」の原語は、アーディープターガーラ(adiptagara)です。
アーディープタは、「燃え立つ」という意味の動詞アーディープ(a-dip)の過去分詞形、アーガーラ(agaraまたはアガーラagara)は家の意味です。したがって、「燃え立った家」の意味となります。
この世が燃え立った家であるとは、なんともすさまじい表現ですね。
この語の典拠は、『法華経』の譬喩品です。
では、早速そこに綴られている譬喩を眺めてみましょう。
釈尊は、弟子シャーリプトラに語りかける。ーー富裕な長者がいた。
彼の家は大きく広かったが、遙か昔に建てられたものだったので、柱の根源は朽ち果て、壁土は崩れかかっていた。
しかも入口は一つであった。
突然その家のあちこちから火の手が上がり、家全体が火炎に包まれた。
さあ大変だ。逃げなくてはならない。
長者は無事に逃れ出たのだが、まだ家の中には彼の子供たちが大勢いるのだ。
長者は心おののきながら考えた。
「自分だけはどうやらすばやく逃げ出せたが、子供たちは燃えさかる家の中にいて、おもちゃで遊んでいる。家が燃えていることさえ知らない。なんとか助けなくては」。
彼は子供たちに呼びかける。
「おーい、子供たちよ。家が焼ける。出ておいで。死んでしまうよ」。
しかし子供たちは幼い。
何が何だか分からず、逃げようとはしない。
長者は考えた。
「うまい手段を講じて子供を助けなくてはならん。」
そこで次のように言う。
「子供たちよ。出ておいで。おもしろいおもちゃがたくさんあるんだ。牛の車、羊の車、鹿の車なんかもある。早くおもちゃを取りに出ておいで。」
子供たちは、自分たちの欲しい物が手に入ると聞いて、急いで燃えさかる家の中から飛び出してきた。
長者は、子供たちが無事であるのを知り、安心し不安はなくなった。
子供たちは言う。
「お父さん。早く車をくださいな。」
長者は思う。
「子供たちは、みな同じくわが子。大切な子らである。差別することはできない。」
こうして長者は、すべての子供たちに、白い牛のひく大きくて立派な車を与えたのであった。ーー
ここでたとえられる長者=父親とはブッダのことである。
ブッダは、生老病死、憂い、悲しみ、苦しみ、悩みに焼かれている我ら衆生を導くために、この世に姿を現すのだ。
燃えさかる家はこの世である。
この世は不快、苦しみによって燃え、朽ち果てた家さながらなのだ。
子供たちは我ら衆生。
燃えさかる家にいながら、おもちゃに夢中で家が焼けるのを知らないように、苦しみ悩みに焼かれていながら、目先の快楽にとらわれている。苦しみの中に転々としながら、遊び戯れ、楽しみふけっているのだ。
ブッダはこのような衆生を見て考える。
うまい手だてを講じて衆生を救おう。
彼 は衆生に三種の乗り物を示す。
教えを聞いてさとる者のための乗り物、一人でさとる者のための乗り物、大きな心をもってさとりを開く者のための乗り物である。
衆生が 三種の乗り物=教えによって燃える家から出てきたとき、ブッダは白い牛の引く大き な車=真実なるただ一つの教えを、分けへだてなくすべての衆生に示すのである。
『法華経』は竜樹(ナーガールジュナ)の大智度論に引用されることから、西暦紀元前後の成立とされます。
しかし、人間の苦悩はなくなっていません。
相変わらず人間は生まれて、老い、病み、死んでゆくのです。
将来も、人間の悩み、苦しみ、悲しみはなくならなることはありません。
『法華経』の時代より、いっそう問題は増えています。
資源の枯渇、食糧危機、人口爆発、環境汚染、イデオロギーの対立等々。
世界は苦悩の炎によって燃えているようです。
時代が変わっても、「火宅」であるこの世は、あかあかと燃え続けてゆくのことでしょう。
果たして人類は、生物として、進化・成長しているのだろうでしょうか?