刹那(せつな)という言葉は、現在でははなはだ快楽主義的な意味で用いられていますね。
「彼はひどく刹那的な気持ちになった」とか、「彼女は刹那主義者だ」と かいう表現がよく用いられています。
刹那主義とは、過去や未来のことを考えずに、現在の瞬間瞬間を楽しく過ごそうという考え方です。
このように、「どうせ死ぬのだ。今のうちに楽しまなくちゃ。」とか、
「将来のことはどうなるか分からないのだ。現在のこの一瞬が大事なのだ。」というぐあいに考えて、
セックスや酒などの快楽に溺れて、あとのことを考えないような生き方を、刹那主義とか刹那的という言葉で表す場合が多いようです。
この場合の刹那主義は、快楽主義的とはいっても、ニヒリスティックで絶望的なニュアンスが強いです。
死などの決定論的、宿命論的な要素と結び付いているからで しょう。
しかしながら、刹那主義の効用というべき面もあります。
過去のことにいつまでもクヨクヨせず、また明日ありと思う心を持たず、現在の一瞬一瞬に充実した生き方をしていくことは、確かに好ましいことです。
そして、その一瞬一瞬が積み重なれば、 悔いの無い、よい結果を生むことができるのです。
このような生き方こそ、正しい刹那主義と呼んでもよさそうです。
刹那というのは、サンスクリット語クシャナ(ksana)の音訳です。
クシャナというのは、極めて短い時間の単位なのです。『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』や
『倶舎論(くしゃろん)』などの代表的仏典には、次のような時間の 単位が説かれています
<( )内はサンスクリット言語>
百二十刹那(クシャナ)が一怛刹那(たんせつな)(タットクシャナ)
六十怛刹那が一蝋縛(ろうばく)(ラヴァ)
三十蝋縛が一須臾(しゅゆ)(ムフールタ)
三十須臾が一昼夜 三十昼夜が一ヶ月
十二ヶ月が一年 すなわち、一昼夜を24時間とすれば、一須臾は48分、一蝋縛は1分36秒(48/30分)、
一怛刹那は 8/5秒、一刹那は1/75秒ということになります。
つまり、この計算によれば刹那は 1/75秒ということになりますが、一説によれば、 力の強い男が一回指をはじいた(一弾指(だんじ))間に 65刹那が存するといいま す。
故に、一弾指の1/65を一刹那とするともいうのです。
また、『大毘婆沙論』には、「二人の成人男子が、何本ものカーシー産絹糸をつかんでひっぱり、もう一人の成人男子が、シナ産の剛刀でもって、一気にこれを切断する時、一本の切断につき、 64刹那が経過する」(定方晟『須弥山と極楽』99ページより引用)と、いかに刹那が短い時間であるかが述べられています。
カーシーとはイ ンド古代の国名で、ベナレスがその都市でした。
現在に至るまで、絹の名産地として有名なところです。
シナ産の剛刀とありますが、実際そのころ中国から刀がインドに輸入されていたかどうかは疑問です。
閑話休題。
時間の計算法には色々な伝承があって、インドのプラーナ聖典や天文学書などの間にも多くの異説が見られます。
古代インドにおいては、時間計算の基準はまちまちであり、学系によってはなはだしく異なっていたものです。
刹那(クシャナ)といえども、けっして時間の最小単位と考えられていたわけではありません。
たとえば『バーガヴァタ・プラーナ』3.11.6-7)によれば、3“ラヴァ”が1“ニメーシャ”(殉)、3“ニメーシャ” が1“クシャナ”とされていました。
そして、“ラヴァ”よりもさらに小さい単位名もいくつかあげられています。
こうなると何が何だか分からなくなり、「刹那的な気持ち」になって、どうでもいいや、酒でも飲もう、ということになってしまうものですね。